人の心
国に一人の賢人が出れば、その国は盛んとなり、その後、愚人が出れば、賢人
が為した事は廃れてしまう。国や社会とはそんなものである。
人の多くは善行をすれば世間に知れ渡りたく思い、悪事をすれば世間に知られたく
無いように思い、隠すものだ。
人は兎角、わが身に益になる事は進んで行いたがるが、わが身に不利となる事は
避けて通りたがる。利益になる事は他人に譲り、わが身に不利となる事を率先して
やれるならば、その人は仏様の意に叶う人である。
捨てる事の四段階とは?
世間を捨てる、家を捨てる、身を捨てる、心を捨てる。最後に捨てるのは心
であり、これが捨てる中で最も捨てがたいものである。
身と心を捨てるとは、どの様な事を言うか?それは悪事が頭をもたげれば、
深く心の中に納め、身をもって善行に体を使い実践することである。
世間では立派な服を着て、高い社会的な地位にある人を敬うが粗末な服を
着て名も無き人には見向きもしない。人を見る際には、外見よりはその人の
行動や言動で判断すべきである。
人を導く事とは、学問や書物の知識を説いて説法することではない。
他人を導く際に、それらの知識は不用となる、必要な事は、行為
で示すしかない。口は便利で何とでも言えるが行為は自らが実践して
示すしかない。
他人が知らないからとか、他人がみていないからとかで悪行をしては
ならない。悪事は所や時を選んでやる傾向があるが、善行は所や時を選ばずに
行えるものだ。
他人の身の上の不幸を、他人事としてみてはいけない。誰でもが他人の不幸を
わが身の不幸として感じる心を持たねばならない。それは他人の不幸はいずれ、
わが身にも起きる事として考えねばならないからだ。
人の素質には大差はない。愚鈍と鋭敏の差といってもそれがどれ程の価値を持つのか?
人は命の危機に際しては、いかに愚鈍でも如何に鋭敏でも、為すことに変わりはない。
何としてもこの危機を回避しようと必死に努力するはずだ。その際の行動や思慮には
愚鈍も鋭敏も関係ない、同じよう考え、同じように行動する筈だ。