維摩詰の維摩経 如来の家系、

世の中のあらゆる悪の種、これが如来の家系である。この家系を絶やさぬ事が如来の家系を絶やさぬ事である。

 

世の中のあらゆる悪が絶えれば、如来の出番はない。つまり如来の家系が絶える事、

如来の血筋が絶えて仏法が消える事を意味する。これも維摩経独特の逆説である。

 

同じ様に

 

菩薩が道に反する行為を道として行じれば、それは仏陀の法を道として進む事で

言いえれば下記の如し

菩薩、もし非道を行ずれば、これ即ち仏道に通達す、と成す。

これは究極の逆説説法である。

世の中はあらゆる非道が充満する世界である。この濁り切った世界が人間界の実態で

あるから、それを無視して独り高見に向かう事が仏法であると思うのは大変な

誤りである。これを端的に示すのが泥から美しいハスの花が開花する、この現象こそ

仏法の依って立つスタンスである。

 

浄土から下がって汚濁の現世に戻るとは、まさにこの事を比喩としてあらわしている

のである。この還相(かんそう)が続けられゝば。浄土には誰も居なくなる。当然

浄土は消えて現世が浄土となる。これが仏法の究極的な目的である。しかし現実は

決して、其の様にはならない。人間が永遠に生きる限り、仏法も永遠に生き残るであろう。

如来に家系の断絶は有り得ないし、菩薩が非道を行じない事もあり得ない事となる。

善と悪は面(おもて)の顔と背中の関係にある。これがいつも目まぐるしく回転し

ながら人は一生を終える。

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