空海の一言

物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり。

 

物事が良い方向に向かうか?悪い方向に向かうかは、偏に

それを執り行う人の性による。

従って人は我が行くべき道を見誤れば、その人は沈むが正しい道を

歩めば、その人は人生を誤る事はない。

 

何事も、人の心次第という事を空海は述べている。

 

その人が人生を決する道を誤ってしまえば、苦しく、実りなき一生となる。

人がひとかどの人間に成る為に、道を決する際には、決して焦ったり、早く

決めてしまう事を避け、十分に熟慮を重ねて、道を誤らず慎重に考えねば

ならない事を示唆している。

 

空海 性霊集より

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寄る辺なき人々

コロナ禍は人と人との寄る辺を破壊している。人の体と心だけではない

人と人の絆も破壊する、恐ろしいウイルスだ。何故、こんな悪辣な

疫病神を蔓延させるのか?人の性癖たる群れたがる習性をうまく利用して

人を意図も簡単に殺してゆく。是ほど手軽で金の掛からない人殺しの

方法はない。仕掛けた奴は内心、ほくそ笑んでいるだろう?

 

昔の都都逸

 

鳥は木に寄り

魚はカカリ(水中の障害物)

人は情の陰に寄る

人も魚も鳥も、何かしらの寄る辺がないと、生きてはゆけぬもの。それが人と

人との絆であり、寄り添う事が出来る陰である。社会とは、寄る辺の陰である

その陰が、今無くなりつゝある。為政者は、金に目が眩むより、寄る辺の陰を

早く作り直せ。

 

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ベニカタバミ

 


先日、近所の路傍に見慣れぬ赤い花が咲いていたので自宅の鉢に植えて

みた。カタバミの種類らしいが、身掛けぬ赤の濃い花です。調べた結果

は、イモカタバミに似たベニカタバミだと判った。

モカタバミの球根は大きくて襞が多いがベニカタバミは白い丸い

小さな球根で、イモカタバミとの決定的な違いは花の基部のガクがイモカタバミでは

緑、ベニカタバミはワインレッドです。ベニカタバミの花が繁茂すれば見ごたえのある

景色となる事請け合い。

 

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 この草は繁殖力が強烈ですから、庭に地植えしない様に。一旦植えたら根絶させる

のが不可能に近いらしいので鉢植えで楽しみたいが、近所の庭に種を飛ばさぬ様に

注意がいる。同様の花が中国のシラユキゲシで、これも厄介な草で、同様に繁殖力

が旺盛で、繁茂すれば、根絶が困難です。

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芥川龍之介の短編小説 往生絵巻

極悪な武士が、ある法師から阿弥陀仏と親しくなれば極楽へ行けると、説法を

聞いたので、その法師に、阿弥陀仏はどこに行けば会えるのか?と問い質す。

法師は中々答えないので、武士は法師を締め上げて白状させると、ならば

西に行きなされと、答える。

 

そして、極悪武士は、次の様な文句を絶えず大声で叫びながら往来を

彷徨っている。‘‘阿弥陀仏よ おおい、おおい‘‘

 

それを聞いた通行人は、彼を狂人と思って相手にしないか、いや途方もない

尊い法師だと、思って敬う人もいた、子供等は馬鹿なオジサンと蔑んだ。

そして、西に歩いたら海辺に来た。そこで船に乗って西に行きたいが船は

見えないので松の木に登って船を呼んでばかりしているうちに、死んでしまった。

 

ある人がその亡骸を松の木に放置すれば、カラスに食いちぎられるので、

かわいそうに思い、木からおろして見たら、口の中にハスの花が咲いていた。

極悪武士は極楽が、この世の何処かにあると思い込んで、しきりに阿弥陀仏

を探したが、遂に見つからなかった。それもそのはず、死んだ後の世界にしか

阿弥陀様はいない、という理屈を知らなかったからだ。

お終い

 

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に帰依します、との意味。アーメンも同じ様に

キリストに帰依します、との意味。アーメン阿弥陀仏でも同じだ。

 

阿弥陀仏に帰依すれば極楽に行けるから、人々は競って南無阿弥陀仏と、

と唱える。しかし、其の為には死んでからでないと極楽には往けません

との条件が付く。現世で拝んでも現世が極楽にはなりません。現世極楽を望む

ためには阿弥陀の様な現世に生きる偉い人を崇めるしかありません。

例えば習近平の様な男を崇めよと中国共産党が言っているが如くである。

人は所詮、現世利益にしか興味はない。来世は誰も知らないから、まやかしで

来世の極楽を平気で吹聴するのである。

地獄、極楽もすべて、この世にあるが、人はそれに気が付かないだけ。その極楽は

人様々の極楽であるし、それは、その人が極楽と感じる所が極楽であって、他人には

必ずしも極楽だとは保証し得ない世界かも知れない。

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芥川龍之介の短編小説 奇怪な再会?

日清戦争の勝利に湧く日本の明治28年の頃の話。

東京の陸軍一等計理部将校の牧野は支那人の女で山東省の軍港の傍にあった

妓館の娼婦であった恵蓮(けいれん)を身請け同様にして日本へ連れて来て

妾として東京市の本所に住まわせる。名を、お蓮と呼ぶ。

 

周りの近所では、テッキリ、日本人のお妾さんだとばかり思っていたのだが?

この女には金という好いた男が居たらしいのだが、その男の生死は判らない。

お蓮は牧野の御新造との軋轢と行方不明になった昔の情人の金の面影に苛まれる

毎日。そんな折、白い子犬がお蓮の妾の家に迷い込む。お蓮は子犬を溺愛して

日々の憂さを晴らす。お蓮の住む妾の家には炊事をするお婆が雇われている。

ある日、子犬とお蓮が話し込む姿を垣間見ると、まるで子犬を昔の情人の金とでも

語り合う様な有様であった。

子犬はお蓮にとっては、金以外には考えらない存在っだったが、その犬はやがて

病死、二度目の犬も白い子犬だった。その犬との出会いも縁日であった。

 

お婆から聞いたお蓮と白い子犬の関係を訝った牧野は、お蓮が縁日に出掛ける

跡を着けていった。そして、お蓮が白い子犬を抱いて楽しそうに語らうのを

見てしまった。お蓮はその後、脳病院へ強制入院させられていた。

お蓮は、病院でも支那服を脱がず、白い犬を金さんと呼びながら発狂した。

その犬がどうなったか?、また金という男の消息は?

多分、犬は牧野に殺されたのかも?

 

さて、この話が意味する事とは?ズバリ 輪廻転生である。

 

人の魂は三界を彷徨って、輪廻の輪からは逃れられない宿命を背負う。

 

三界とは欲界(人間界)色界、無色界を指し、欲界とは六道とも呼ばれる世界、

色界とは欲を離れる世界だが人間の持つ欲望や、様々の煩悩を取り去った世界だが

物質には拘りを持つ世界。無色界は精神世界のみある。禅定の世界

 

お蓮の情人の金は、死んでも魂が子犬に転生して、恵蓮を慕って欲界を彷徨って

いるのである。

 人の欲望で、最も強烈なもの、最も押さえ難いもの、それは愛欲であるし、

性欲でもある。

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 米国と戦った第二次世界大戦の前夜、多くの日本人が海を渡り満州へ向かった。

ある者は新天地を求めて開拓団へ、ある者は鉄道敷設の建設技師や労働者として、

ある者は軍の施設の建設に従事する技術者として、多くの日本人が大陸で働いていた。

そんな人々を客として接待したのが、支那の女達だ。古い写真を見れば支那服を着た

大陸の芸妓が日本のお客と記念撮影した姿が写っている。そこにはどんな世界が

あったのかは?今の若い世代には知る由ものない。

送り出した日本の妻達の嘆きは?浮気をするのではないか?現地の女と所帯を

持ってしまうかもしれない、そんな不安を持って、妻は亭主を送り出していた

のだろう??